なぜ僕らは街へと向かったのか(1)

いまでも時々思うことがある。人口が2000人にまで減ってしまい、いまも1年に100人以上が減っている我が故郷。僕らが山から出なかったら、こんなことになってなかったのでは?と。

僕の同級生は1学年で50人強(その当時の町の人口は5000人以上)。今でも地元に残っているのは知っている限りで6人。残り44人は故郷を出た。僕は中学を卒業してすぐに出たので、いわば先発隊であり、残りの多くが高校を卒業してから故郷を去った。地元の高校は隣町にあり、同級生の多くはJR飯田線でそこへ通った(佐久間高校)。僕は下宿をして磐田南高校というところに通っていた。

僕らが故郷にとどまり続けたら、山の中でお金がある程度循環し、跡継ぎも残って、その多くがたたんでしまったお店も続き(酒屋、金物屋、定食屋、文房具屋、旅館などさまざまあった)、ここまで過疎が進まなかったのではないか。

しかし、そうはならなかった。なぜか。

一つには、「ここにのこってもしょんないぞー」というのがあったのではと思う。親も山から子どもを出したがっていた。「一生をどう生きていくか」「いかに仕事を得て収入を得るか」ということで考えると、山に残り続けると厳しい現実が待っていると思っていたのではないか。山に残っても大した仕事はないし、街に行けばたくさん仕事がある、くいっぱぐれない。そういうシンプルな考え方である。本当に山に働く場所がなかったのかわからない。ただひとつ言えるのは、僕が1976年に生まれるより20~25年くらい前までは、故郷にはもっとたくさんのお金が流れ込んでいて、そのお金は僕が中学を卒業する1991年ころにはだいぶ細くなっていたということだ。

長野県との県境にある山の町である。主要産業は林業であった。戦争で日本全体が焼け野原になり、住宅などの復興需要で木材が高く売れた。うちの母の実家も山を持っていたので当時は非常にはぶりがよかったらしい。曾祖父の代の頃。しかし1964年(東京オリンピックの年!)の木材全面輸入自由化以降は、急激に安い外材が市場に流通しはじめ、1969年には初めて国産材供給量を上回り、そこからはもう歯止めがはきかなかった。こうした外部環境の変化は当然故郷に大きな影響をもたらし、町に入ってくるお金が少なくなっていった。

僕の父親は1944年に旅館に生まれたが、彼が子どもの頃は毎晩が宴会でどんちゃん騒ぎだったらしい。お酒があるところには女性ありということで、僕の感覚では信じられないが、あんなに小さい山の町にも芸者さんがいたそうだ。映画館もあり、映画スターなども興行で来ていたと聞いた。

そういう時代を生きた人からすると、その後の変化の中に身を置きながら「ここにいても仕事なんかないぞー」と、経済が先細りする地域の未来に対して明るい展望を持てなかったのだと思う。だから子どもを街へ出したがった。そうして僕らは街に出て行った。こうやって書いてみて気づいたが、僕らは希望のない場所で生まれて育った。希望は外にあって、中にはなかったのである(続く)

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